17世紀の科学

17世紀 物理学
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「遠くを眺めることができるのは、巨人の肩に乗ったからである」
17世紀を代表する科学者、アイザック・ニュートンの有名な言葉です。ニュートンはその後の物理学の体系を決める様々な発見を繰り返しましたが、それはケプラー、ガリレオといったニュートン以前の偉大な科学者がいたからだと述べています。天動説から地動説への転換、ニュートン力学の構築に代表される17世紀の科学の歴史を辿ることは、様々な科学者の研究の蓄積が、その後科学の体系の規範とみなされる運動理論を導くまでの、一連の系譜を浮かび上がらせます。

天文観測家ティコ・ブラーエ

17世紀に活躍した物理学者といえば、ケプラー、ガリレオ、デカルト、ニュートンですが、その礎を築いた重要な人物として天文観測家のティコ・ブラーエがいます。ティコは望遠鏡が発明される以前の時代に素晴らしく精密な観測データを取得していました。1543年にコペルニクスが『天球の回転について』の中で地動説を提唱してから半世紀ほどの時間が経過していましたが、ティコはこれほど精密な測定をしながらも地球は不動であると考え、他の惑星は地球ではなく太陽の周りを回転しながら地球の周りを回転していると考えていました。つまり、太陽が他の惑星を引き連れて地球の周りを回っている、ということです。これは現代の私たちからみると、天動説と地動説を混ぜたちぐはぐな考え方のように思えますが、精密な測定データと当時の社会的風潮といった相反する2つを無理やり結びつけているような、科学、社会の過渡期を象徴するような考え方に思えます。そして、科学にとって重要な時代になる17世紀の始まりの1601年に、ちょうどティコはなくなりました。

ケプラーの経験則

ケプラーはティコのデータを駆使して、惑星の運動に関する3つの経験則を導き出しました。その法則から、全ての惑星は太陽を焦点とする楕円軌道上をまわり、一定時間に等しい面積を描く、ということが示されました。当時、天動説においても地動説においても天体は円軌道を描くものと信じ込まれていました。地球が不動かどうかに疑問を投げかけるものはいても、円軌道を疑うものは誰一人としていなかったのです。

ケプラーの発見から、惑星はなぜ円軌道ではなく楕円軌道をまわるのかという疑念が自然的に発生し、またその焦点に位置する太陽が、全ての惑星の動きに影響を与えているのではないかという考えも生まれ始めました。この疑念は長く続くことになりますが、このことに正当な答えを出すのが後のニュートンになります。

ガリレオの『星界の報告』

一方で、1608年になるとオランダのリッペルスハイによって望遠鏡が発明されます。ガリレオはすぐに望遠鏡に興味を示し、その観察成果を『星界の報告』として1610年に発表しました。そこには、肉眼で捉えられないような無数の星々が恒星の周辺にあり、地球以外の惑星にも地球と同じような衛星がまわっているということが記されていました。

人類の地球外への分解能を一気に高めたこの望遠鏡は、様々な新しい星を発見する一方で、地球が宇宙の中で決して特別ではないことを人類に認識させはじめたのです。

ニュートンの『プリンキピア』

こうして、天動説から地動説への転換は徐々に進んでいくことになりますが、人々を納得させるためにはもう一つの重要な課題があります。それが運動理論の確立です。地動説が一般的にその地位を固めていくためには、それに伴う運動現象を正しく説明し、同時に惑星の運行を説明するケプラーの法則を導出できる理論の構築が必要不可欠になります。

ニュートンの業績は、微積分法の発見、光学に関する様々な発見など多岐に渡りますが、最も重要なものは万有引力の法則の発見を含む力学発展への貢献です。万有引力の法則と運動の3法則によって、地上のみならず、天体の運動も全て説明できることがわかりました。

ニュートンは運動の3法則を根底に置きながら、ケプラーの3つの法則を成り立たせるためにどうすればよいか、と考えました。その結果、導き出されたのが万有引力の法則です。(この導出方法はいずれ説明したいです)

ニュートンは1687年に『プリンキピア』を発表し、そこで初めて万有引力の法則を公表します。それは極めて演繹性、汎用性の高い理論体系でした。その時初めて人類は、科学と呼ぶにふさわしい、知識の寄せ集めだけではない理論体系を手にすることになったのです。

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